千鳥ヶ淵の桜 由来と現在(2)
その2 千鳥ヶ淵に桜はいつから植えられたのか?
千鳥ヶ淵と桜 内堀通り
千鳥ヶ淵緑道の歴史は浅いのですが、千代田区と桜の関係について記されているものがあります。
明治時代に英国大使館前に桜を植えたのがアーネススト・サトウだと『東京市蹟写真帳」(戸川残花著 大正3年発行)に記されています。その後、戦後最代の英国大使だったエスラー・デニング卿(築地生まれ・仙台育ち)が任期を終えた1957(昭和32)年に、千鳥ヶ淵公園に20本の枝垂れ桜を寄贈しています。麹町は英国大使館との関りが深い処です。
千代田区の誕生・区営ボート乗場開始
皇居はかつて江戸城でした。そのお濠は防衛や生活の水お確保のために作られているので、千鳥ヶ淵の桜は江戸時代から咲いていたわけではありません。その桜の歴史を語る前に、千代田区の誕生と区民ボート場の設立についてお話します。
まず、1947(昭和22)年に東京35区は22区に整理統合されました。その時、神田区と麹町区が一緒になって千代田区が誕生しました。その時区長は初めて選挙で選出された人がなり、初代千代田区長は、かつて東京35区の時代に神田区長を務めた村瀬清氏でした。
その当時、敗戦の色濃く残る社会は、貧しく娯楽も少ない頃でした。区は千鳥ヶ淵の水面利用の許可を国から取得し、1950(昭和25)年3月13日千鳥ヶ淵に区営ボート場を開業しました。その評判は極めて良く、夏休み期間中はボート場を小学生に開放していました。昭和30年代の『千代田区広報』の表紙に千鳥ヶ淵ボート場で楽しむ人々の様子が載っています。
千鳥ヶ淵に桜を植えた人、新堀氏
千鳥ヶ淵に桜を植えたのはだれか? その答えは数年前には、植えたその人が、自から語っていましたが、今ではその人も亡き、語り部が不在です。
その語り部とは、千代田区役所元職員、故新堀栄一氏で、今まで雑誌や新聞の取材で、その経緯を幾度となく語っていました。私は彼から由来を何度も聞いてきたので、それをご紹介します。
千鳥ヶ淵の区営ボート場は人気を博していましたが、そのボート場が殺風景だったので、1955(昭和30)年頃から数年にわたり桜を植えたというのです。それは村瀬区長の鶴の一声で、桜を植えることになりました。
その命に従った新堀氏は昭和7年の生まれで、その頃は20歳過ぎた頃の臨時職員の身分で、麹町出張所に勤務していました。戦後の役所には、植栽の専門家がおらず、新堀氏は高校で園芸を学んでいたことから配属されました。
その当時はまだ敗戦色濃い頃でしたから、造園業者の仕事の無く、彼らはリヤカーや馬車、大八車を引いて作業していた時代でした。特に大変だったのは、北の丸公園側の城壁の勾配がきつく、当時はまだ穴を掘る機械も無い頃でした。幸いにも一流の植木職人が植栽に関わることができたので、難易度の高い仕事が成しえたわけです。その植栽とは、傾斜にはまず杉切丸太を打って、杉皮で土留めをして、それから穴を掘って植えるという手順ですが、まだ若かったから地下足袋をはいて、植木職人と共に植栽しました。
我々が見ている風景は、その当時何年もかけて作り込んだ風景ですが、植栽したての頃は、細い苗木が植えられただけでしたから、役所では評判は芳しいものではなく、周囲からは「いったいどこに植えたんだ。と言われて、悔しい想いをしました」と語ってくれました。
現在の千鳥ヶ淵には4種類の桜が植えられていますが、その頃は、植栽できるのは桜の品種は染井吉野だけでした。
桜の根は地表5㎝に根を張りますから、北の丸公園の城壁に植えられた桜が、あの傾斜している城壁に、必死で根を張って花を咲かせているのを想像してください。2012年、2013年の大雪で何本も枝は折れたのもやむえないでしょう。植栽された桜も50年以上になれば、老いているのですから。
我々は美しい風景を当然としてみていますが、まだ日本が貧しかった時代、現在のような物質的に豊かな暮らしなど想像できなかった頃に植えたものです。その時代に新堀氏も村瀬氏も、海外からも桜目当てに観光客が押し寄せるような桜の名所になるとは、想像もしていませんでした。
特に区長だった村瀬氏は晩年病床にあって、千鳥ヶ淵に多くの人が押し寄せているの様子をテレビ放送で見て、自分のやったことは間違いなかったと、大変喜んでいたそうです。そのことを新堀さんは村瀬夫人からの連絡で知ったそうです。この話をする度に、新堀氏もまた自分の仕事に誇りを感じたと語ってくれました。